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書き出しのレッスン 〜冒頭の情報圧縮  「さよならロバート・ラングドン」

 浅く腰かけていたシートからぴょんと飛び降りて、ドアのところの大きな窓へ女の子が駆けていく。すぐあとを鋭い声が追いかけた。
「ほらアーちゃん、ちゃんと座ってなさいっ」
細身の母親にしては張りのある声が、意外なほど大きく車両内に響いた。
向かいの座席で身を寄せ合っていた若いカップルの、彼女のほうだけが顔を上げて母親を見た。
そこへもうひとつ大声が聞こえてきて、彼女の視線はそちらへ移る。
「だって。みえないもん。もうすぐでしょ、うみ」
 アーちゃんと呼ばれた女の子が返事をしている。母親似なのか、こちらもよく通るボリュームたっぷりの声で。
 電車で勝手に立ち上がってはいけない、母親はそうたしなめつつ言葉を継ぐ。
「外を見たいんなら、ちゃんと手すりにつかまって。それに、かわだよ、見えるのは。海じゃなくて、えどがわ。江戸川っていうのよ」
 そう言い終えるやいなや、車内に射す陽の光がいちどきに増えた。母親と向かいの女性は、同時に窓外を眺めやる。
 津田沼駅を十三時三十三分に出た総武線は今まさに鉄橋へさしかかり、大きな川を渡らんとしていた。
 江戸川だ。晴れ渡った秋空から陽光が水面に降り注ぎ、反射した光が窓から飛び込んで、車内の明るさが倍増したのだった。
額に垂れかかる髪を両手でしきりに払いながら、水面を見据えていた娘に向かって、
「川だね。アーちゃん、川だよ」
 と声をかける。黄金色の水流の向こうに、緑で覆われた河原も見える。
「うん、おぼえてるよ。みんなでいったところだよねえ」
 川から眼を離して、アーちゃんがニッコリして母のほうへ振り向く。長く伸ばした黒髪がふわりと揺れて、あおりで髪にまとわりついていた光の粒子が、はらはらと漂い出す。
 たかだか五年しか過去を持っていない子のくせに、遠いときを振り返るようなもの言いをする。大人びた口調に、母親は少し目を細める。
 鉄橋の上を走る電車は、河原の真横に差しかかる。青々とした草地は、寝転んだらいかにも気持ちよさそう。陽気に誘われてか、なかなかの人出。川べりの大きな樹木の下には赤、白、黄色、レジャーシートが点々と広げられていた。そのまわりにベビーカーが何台か置いてある。何人かの子どもたちが、大きな青いゴムボールを全速力で追い駆けていった。
 は、見惚れている場合じゃない。と言わんばかりに我に返った母親は、ドアの窓から外を見続ける娘に声をかけた。席に戻るよう言うと、意外にすんなりと歩いてきて、母親の傍らに座った子に、冗談みたいに小さいリュックを背負わせて、
「さ、次で降りるよ。あの河原行くよー」
 と促した。まもなく平井、平井と次の駅名がアナウンスされるころには、荷物を整えふたりそろって立ち上がり、手をつないでドアのほうへ向かっていた。
 小さい子を連れていると、いちいち準備がたいへんなのだなと、向かいの女性は母娘の姿を見ながらぼんやり思う。
「ねえ、マモってどんなの? なんて鳴くの〜?」
 と幼い娘は意味の通らぬことを口走っているけれど、母親はドア近くにあった中吊り広告に気を取られていて返事をしない。
広告は、一冊の本の刊行を知らせていた。ダン・ブラウンの新作小説、『ロスト・シンボル』。
「『天使と悪魔』『ダ・ヴィンチ・コード』に続くラングドン・シリーズ第三弾!」「次なる謎は、世界最大の秘密結社『フリーメイソン』」「全米でベストセラー独走」
 派手派手しい煽り文句とデザインに、なんでこの母親はそんなに惹かれるんだろう。向かいの女性には見当もつかない。
 ドアが開いて母娘が降りていき、ドアが閉まって「次は錦糸町」というアナウンスが流れるころになって、女性はようやく気づいた。
 あ、「まもなく平井」というアナウンスの「まもなく」のことだ。マモっていう生きものがいて、それが鳴くの? って、あの娘は思ったんだな。


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