見出し画像

読み書きのレッスン 徴(しるし)の発見 「家族写真」辻原登 と 「白夜」ドストエフスキー

 物語は、「出来事」「受動的感情」「能動的感情」に分けて見ていくことができる。
 辻原登「家族写真」はどうか。
「役場の収入役、谷口の長女が県立高校の分校を卒業して、松川電器門真工場に就職することになった。」
 というのが冒頭の一文。長女が働く工場は、彼らの住まいからずいぶん遠いという。その説明をひとしきりしながら、家族は紀伊半島の田舎で暮らしていることが簡潔に明かされる。これは前稿で述べた通り。
 一ページ内に半島の地図をくっきり浮き彫りにするこの手際の良さはすごいけれど、出だしから二段落はずっと出来事つまり説明が書かれていて、感情の入り込む余地はない。
 三段落目でようやく一言、感情が漏れる。
 長女が勤めることになった工場には、
「一万人の工員がいるときいた。玉緒は一万人の中のひとりになるのだ。」
 と書かれた後に、
「目もくらむほどだ。」
 とポツリ感想が出てくる。
 誰が目もくらむと思ったのか。どうやら玉緒のようである。
 この一文までは、紀伊半島全体を鳥瞰するようにして、物語の舞台の位置関係が説明されていた。その大仰な視点のことを批評するみたいにして、「目もくらむほど」と言う。視点の移動が咄嗟で落差も大きいだけに、読む側も目眩を起こしそう。
 神の視点から、田舎から出てきた高卒の新工員の心細い目線へ。この小説内現実では、まだ何も起きていない。なのに読者はすでに、ジェットコースターのクライマックス部分ほどの衝撃と変化を味わわされている。

 抑えに抑えておいた末に、感情をポンと出すのが辻原登だとしたら、まったく逆をいくのがドストエフスキー。短編「白夜」の冒頭はこう。
「すばらしい夜であった。」
 なんと雑な書き出し。すばらしい、って何が、どう……。言葉として陳腐だし。
 と思うけれど、そこからも自分の感情を放出しまくって恥じないから、雑かどうかなんて気にならなくなっていく。続きは、
「それは、愛する読者諸君よ、まさにわれらが青春の日にのみありうるような夜であった。」
「こんな美しい空の下に、さまざまな怒りっぽい人や、気紛れな人間がはたして住んでいられるものだろうか?」
 などとハイテンション。そのまま語り手の感情は乱高下していく。
 ようやく1ページ目が終わるころ、
「なにしろ私はこれでもう八年もペテルブルクに住んでいながら、ほとんど一人の知人をつくる才覚もなかった男なのだから。」
 と、情報の一端が示される。
 思えば、感情の奔流で話を押していくのは、有名な長編の数々でも用いてきたドストエフスキーの常套手段。語り手が熱に浮かされ喋りまくるうち、その語りの中にひとつの世界ができてきて、虚実もないまぜになっていく。そのスケール感と、読み手が自分の立ち位置を見失いそうになる目眩の感覚(ここでも目眩!)がドストエフスキーは楽しいのだ。
 
 辻原登とドストエフスキー。方法は真逆だけれど、感情を際立たせるために波や落差をつくろうと、あれこれ策が張り巡らしているのは同じだ。


みんなにも読んでほしいですか?

オススメした記事はフォロワーのタイムラインに表示されます!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?