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第23夜 「私という現象」 三浦雅士

 編集者として、また文筆家として広く活躍してきた人物の、最初の著作がこれだった。

 書かれた時代は、1980年代をまもなく迎えようとしているころ。
 当時は「文学の終焉」が唱えられていたという。
 そんな状況に応対しようと、同時代を読んでいく試みをここで三浦はしている。
 寺山修司だったり柄谷行人だったりが、眼前の課題として語られていく感覚がおもしろい。自分がいまいる時代にちゃんと向き合っておくことは大切だと、改めて感じさせる。

 同時代の詩人への言及も多い。そしてそこから思考は宮沢賢治へと降りていく。さすがは元「ユリイカ」編集長。同誌は詩と思想の雑誌だった。だった、じゃない、いまもあるけれど。
 宮沢賢治の推敲は、最終的な完成を目指して整えていくようなものじゃなかったという話が興味深い。賢治の場合、推敲するたび書きものの中身は変わっていく。そのつど目の前にあるものから脱却し、そのつどの完成をめざしたのだという。
 そうした芸術のあり方を「四次元芸術」と賢治は呼んでいた。
 すべては第四の次元である時間の軸に沿って移動し、変化していく。変化の一つひとつの相のすべてが作品の真実であって、変化の相において捉えられた全体が、作品のありのままの姿だと考えるのであった。
 この考えは「春と修羅」の序によく表れているという。
 「序」とはこの書き出しのもののことだ。

わたくしという現象は
仮定された有機交流電灯の
ひとつの青い照明です

 完成形なんてどこにもない。あるのはただ、完成を目指して進んできた足跡と、完成を目指して進む現在の姿と、完成を目指して進もうとする予兆や希望や予想のラインのみ。その全体像を作品とみなしたり、表現として捉えるしかないんだろうというわけだ。
 この物事の見方は頷けるものだし、いま「ものをつくるとはどういうことか」を問うときにも、すごく有効な考え方になりそう。

「私という現象」三浦雅士 講談社学術文庫


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