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第三十一夜 『神様の友達の友達の友達はぼく』最果タヒ 〜月夜千冊〜

 最果タヒはほんとうになんでも書ける。ジャンルを無化する。この本に載っているのは便宜上エッセイと呼ばれることが多いのかもしれないけれど、詩でもあり小説でもあるだろうとおもう。総称していつも「ふみ」を書いてるのだと決めつけたい。

 または、最果タヒの書くものはいつもただの「運動」だという気もする。何を書こうとしているかはともかく、そこに「流れ」を生じさせているというか。

 流れを記述しようと心を砕いた書き手が、そういえば百年あまり前にもいた。
 ヴァージニア・ウルフ。
 彼女は「意識の流れ」を文字化しようとして、たとえば『ダロウェイ夫人』では、

「早朝の空気はなんと新鮮で、なんと静かだったか。勿論、このロンドンよりずっと静かで、波がはたはたと寄せ、素足をキスしてゆくにも似た、冷たく、鋭い感じ。しかも〜」

 と書いた。
 百年後に最果タヒは、

「私は今その子のことを思い出して、優しかったとかいい子だったとかは思わないし、ただ一緒に遊んだなあ、と思い出だけが残っている。楽しかったのかどうかはわからない、一人よりはましだったと思うが」

 などと書いていて、流れ方に通ずるところがあるなと感じる。
 それはそうか。水の流れ方なんてたぶん百年前も百年後も同じだろうし。

 意識の流れを書く。というのには憧れてしまうけど、頭に浮かんだことを自動的につらつら書いていけばいいというような単純なことでないのは明白。
 そもそも流れてくる水、というか意識が汚れ切っていたり、陳腐で臭いがひどかったりしては成り立たない。よく澄んで、なかなかユニークなものでないかぎり、読むに堪えない。

 それこそ「よく生きる」みたいな姿勢が作者なり登場人物にあって初めて、意識の流れは読み応えある作物として結実するんじゃないか。ウルフが長大な作品で意識の流れを追いかけ尽くして、そこに浮かんでくるものは、作者および登場人物の生活と個性だったりするから。


『神様の友達の友達の友達はぼく』 最果タヒ 筑摩書房

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