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宮﨑駿の『君たちはどう生きるか』を 「物語づくり」から眺める 

物語づくりの観点から、宮﨑駿の新作『君たちはどう生きるか』をみてみる。
目についた特長を、みっつ挙げたい。

ひとつめ。今作では、物語の「型」が、忠実に用いられている。
古代ギリシアの時代から、あらゆる物語は決まりきった型に沿うとされてきた。
それがすなわち三幕構成。

一幕で状況や目的がセットアップされ、
二幕で対立や葛藤が展開され、
三幕で解決を見る。
というのが物語の基本型であって、『君たちはどう生きるか』も、きちんとこれが守られている。

一幕では戦時下の現実世界がリアルに描写され、
二幕では塔の中にはいり、めくるめくファンタジーの世界へ。
三幕で葛藤を乗り越えた眞人が、元の世界へと戻ってくる。
幕ごとに、くっきりはっきりと、描き分けがなされている。

物語の型を最大限に単純化すると「行って、帰り、変化した」となるけれど、今作では主人公の眞人が明確に、行って帰り大人への階段を一歩上るという変化を経験するようになっている。

一幕のうちに眞人が側頭部に傷を負い身体的な「徴」を得たり、旅立ちいったん躊躇したりと、各幕で消化すべき要素も組み入れられていておみごと。

なぜかくも律儀に、物語の型を踏襲しているのか。
ひとえに宮崎駿が、自身のイマジネーションを存分に発揮し爆発させるためだ。

無茶をしたければ、まず型を設定するのがいい。
大枠を型に守られていれば、どれほど破綻しそうに見えても、物語はどうにか終着点へたどり着くことができるから、途中でどんなにハメを外してもだいじょうぶ。

それで宮崎駿は、まず物語を型にきっちり嵌めたのち、とくに第二幕でやりたい放題のかぎりを尽くした。
奇天烈な存在が続々と登場して大暴れし、眞人の行き先も話の筋もどちらへ転ぶのかさっぱりわからなくなる。
でも型に嵌まっていれば、しかるべきときにターニングポイントがきてクライマックスが訪れ、眞人は成長を得て自分の世界へ帰ってこられる。

かくして型に守られながらの「やりたい放題」のパートは、この作品の最大の見どころにしてお楽しみポイントとなった。

宮崎駿が第二幕で繰り出すイメージの数々には、ひとつ共通点がある。「動き」の重視だ。
いろんなキャラクターが現れてびっくりしたりおかしかったりするけれど、何より目を惹くのは動きのおもしろさや珍しさである。これまでの作品と同じく、というかもっと徹底して、宮﨑駿は動く絵たるアニメーションでできることを、ここでやり切っている。


ふたつめ。
映画『君たちはどう生きるか』は、原作『君たちはどう生きるか』の宮﨑流新解釈になっている。

映画のなかには、原作『君たち』が実際に一度出てくる。その本を読むことは、眞人がファンタジーの世界へ足を踏み入れるトリガーとなる。

ファンタジーの世界は、眞人が引っ越した屋敷の敷地内にある塔で、そこは彼のオジにあたる人物が建てたもの。オジに導かれて新しい世界へとはいっていくというのは、原作『君たち』の主人公コペル君が、おじさんのノートを頼りに成長していくのと同じ構造だ。

映画内の印象的なシーンでも、原作版の翻案がおこなわれている。
映画のファンタジーの世界で、白くてちいさくてかわいらしいキャラクターが無数に空を上っていくシーンがある。
これは、原作版でコペル君が銀座のデパートの屋上から地上を見下ろし、なんてたくさんの自分の知らない人がいることかと感嘆し、
「人間て、まあ、水の分子みたいなものだねえ。」
とつぶやく場面と印象がたいへん似ている。

また、映画のなかでの眞人の関心事はただひとつ、自分の魂の成長である。学校では他の生徒と折り合いが悪かったシーンしか出てこないし、アオサギが終盤で真斗の友人である旨を言い募るが、眞人の反応は薄い。いまの眞人にとって大事なのは自分のことで、友情は添え物だ。

原作『君たち』でも、友人たちとの関係性は話の軸になっているが、コペル君の主眼は自分がいかに生きるか、どう将来像を描き出すかにあると見受けられる。
自己の形成に夢中で、視野が狭まっている思春期男子特有の感じは、映画と原作のどちらでもたっぷり表現されている。


みっつめ。
宮﨑駿最後の作品とうたわれているとおり、今作は大団円感がすさまじく強い。
とくに映画後半の畳み掛けるようなイメージの奔流は、ザ・ビートルズの実質的ラストアルバム『アビー・ロード』の終盤を飾るメドレーを思い起こさせる。

創作者人生の幕をみずから引こうとする、宮﨑の強い意志に打たれる。
ひとつの時代が終わるのか……、という感慨が押し寄せてくる。

思えばここ30年ほどの日本の表現の世界は、宮﨑駿と村上春樹の時代だった。そのラストシーンを僕らはいま見ているんじゃないか。

生きた時代を同じくしているからなのか、それ以外の要因もあるのかどうかはわからないけれど、宮崎駿と村上春樹は、物語づくりで「核」に据えているものが近しい。
映画『君たち』にもはっきり表れているその「核」とは、エディプス・コンプレックス。父親を追い落とし、母親を得ようとする深層心理のこと。

映画『君たち』は全編にわたって、大人になるための通過儀礼として、エディプス・コンプレックスを乗り越えていくさまが描かれていると読み取れそうだ。

エディプス・コンプレックスと関連するかどうか定かではないけれど、宮﨑・村上の両者はフィクションについての捉え方も似ている。不思議な出来事やファンタジーすなわちフィクションを、現実を捨てて逃げ込んでいく退避場所・安全基地とはっきり位置付け、活用するパターンが多いのだ。

映画『君たち』でも、眞人はあれこれ劣勢だった現実世界から逃げ出すようにして、ファンタジーの世界へとはいっていく。そこで傷を癒やし体験を積み、意識を変革してすこし成長して、また現実へ戻ろうとするのだから、眞人にとってフィクションという一時退避場所はひじょうに大切なものなのだろう。


ひとつの時代の終わりに際して、宮﨑駿と村上春樹双方の作品を改めて、ひとつずつじっくり見直していきたい気持ちになってくる。
それは日本の現在史を描き出すことにもつながりそうだ。

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