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創作論2 フィクションとナレーション

記憶の中から掘り起こしていく創作論の続き。小説を例にとって話を進める(が、他のジャンルでもほぼ同様なことは言えるはずなので、あしからず)。

小説には、ふたつの要素が含まれている。ナレーションとフィクションだ。
ナレーションとは、語りのこと。どう語っているか、その語り口に作品固有のものが滲む。
フィクションとは、書かれた内容、話のスジ、ストーリーのこと。

重要なのはどちらか。断然、ナレーションである。
何が書かれているか、書かれていることの重大さはポイントにならない。どんな内容であれ、それをどう書くかこそが、ポイントだ。


好例は、夏目漱石「吾輩は猫である」。
歴史に堪え残る名作だが、その魅力の9割以上はナレーションに負っている。
「吾輩は猫である。名前はまだない」
という冒頭から炸裂している独特のナレーション。それがなければ魅力は半減どころじゃない。
話の筋なんて、なぜか日本語を解する猫がただ主人の家の中を観察しているだけなのだから。

では、ナレーションをどうつくるか。
第一歩は、スタイルを選び取ること。
文体のようなものをイメージしてもいいが、ジャンルの選択というほうが近い。「こういうテイストのを書く!」と、まずは決め切る。
創作とはまず、スタイルを選びとるところから始まる。

スタイルはどこからどう選ぶのか。スタイルそれ自体を発明していくのもいいけれど、それはなかなかたいへんなこと。
まずは外部から導入すればいい。
すでにあるものを、真似る。そこから入るのでまったく問題ない。

迷ってしまうなら、夏目漱石の各作品のどれかを任意に選んでみる、でもいい。
真似から入るのも吉。
日本の近代小説では、一人の作家は一つの世界観を持ち、一人一文体を貫くべきというような信仰があるけれど、固執する必要はない。夏目漱石を見よ。作品を書くたび、新しいスタイルを選択している。


「吾輩は猫である」もいいだろうし、また「坊ちゃん」も、際立ったスタイルを持っている。
「坊ちゃん」はかなり短い小説。それなのに登場人物は数多い。
簡潔極まりない文体で的確に人物を描写しているから、数行で人物像を読者の脳裏に深く刻み込んでしまう。
だから脇役が光る。赤シャツ、マドンナ……。人物を短く描写するには、それぞれの関係性に着目して書くのがいい。

主人公・坊ちゃんの語り口は断定的だ。冒頭のほう、子ども時代を回想してこんなことを言う。

「勘太郎は無論弱虫だ。」

勘太郎とはここでしか出てこない人物で、彼が弱虫かどうかなどこちらは知らぬが、有無を言わさず「無論」とあるだけで、坊ちゃんのものの見方が鮮やかに理解できる。坊ちゃん的世界が、一挙に広がる。これがナレーションの力だ。


こちらも冒頭近く。こんなナレーションがある。

「母が病気で死ぬ二三日前台所で宙返りをしてへっついの角で肋骨を撲って大いに痛かった。」

ここで伝えるべき情報は「母が死んだ」という事実だが、それを他の描写に溶け込ませることで、読む側の興味を惹くかたちでごく自然に伝えている。
フィクションつまり話の筋を進めるためにはある程度の説明が必要となるが、小説は説明をするためのものではないので、説明もおもしろく読ませたい。そこでナレーションを駆使して、説明を「読める」ものにしてあるのだ。

坊ちゃんは地の文のナレーションでは能弁でキレキレだが、実際のセリフはほとんどない。他人に喋る言葉をほとんど持っておらず、うまくコミュニケーションがとれない人物なのだ。松山という知らない土地に来ているからというのではなく、もともとそういう性向なのだろうと思われる。
言葉を発しない坊ちゃんを、実家の女中だった清だけは理解してくれて、たびたび坊ちゃんに手紙を送ってくる。坊ちゃんは清からの手紙を読むときだけ、心内の能弁が影を潜めるのだった。そのあたりも、ナレーションのコントロールによって坊ちゃんの秘めたる心情を表してある。

それにしても、この何かにせっつかれているような、そして言葉がどこにも届かないようなナレーションは、坊ちゃんの江戸っ子気質を強調することにもなっているし、明治以降の日本の世の、いつもわけもなく急いでいるのにじつは空回りしっぱなしの手応えのなさを、よくよく炙り出している気がする。
「坊ちゃん」がいつまでも読み継がれるのは、ナレーションの力によるのであった。


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