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写真を読む ~安部公房『箱男』のなかの、「見る・見られる」の関係

 安部公房の『砂の女』では、ひとくみの女と男が、砂のなかの家にとらわれている。
 女が住んでいた家にあとから来ることとなる男は、虫を探して砂丘へと誘い出され、見つけた虫にカメラを向けるも、足元をとられてシャッターを押せなかった。
 そのまま砂に巻き込まれ、家と女に絡めとられ、抜け出せなくなる。蟻地獄にはまったみたいに。
 ああ、あのとき、シャッターを押しさえすればよかったのにとおもった。
 シャッターを押して、写真に撮れば、その光景は記録され記憶の素となる。すなわち男にとって「過去」となり持ち運び可能なものとなったはず。
 写真にする踏ん切りがつかなかったから、ずるずると現状が続き、「場」との関係を断ち切れなくなったんじゃないのかとかんじられた。


 カメラや写真と親しかった安部公房は、作中によく写真を用いた。
『箱男』にいたっては、カラー写真図版が幾枚も載っていて、それが作品の一部をなしているほど。話のテーマも、まなざしの行方とか見る・見られるの関係みたいなことが扱われており、つまりは写真のことを考える小説だ。

 大きな箱をかぶって生活する男の顛末が描かれるのだけど、その男はまさに自分がカメラになって生きようとしている。箱男は自分へ向けられる視線をシャットアウトして、一方的に相手を覗き見る存在となる。ふつう人は「見る・見られる」の相互関係のなかで生きているけれど、箱男はその関係性からひとり抜け出して特権的な場に身を置くのである。
 存在を消して一方的に相手を見ることに成功した箱男は、相手の無意識状態をじっくり観察することができる。相手は見られていることに気づかないから、とことん無防備なのだ。

 無意識の世界とは、ふつうはなかなか見られない。人はどんなときも誰かから見られることを意識して何らかの仮面をかぶっているものだし、それは風景だって同じこと。意識や意味づけで自分の存在を着飾って、「こう見られたい」「こうありたい」というアウラを常にまとっている。
 箱男の視線は、アウラを剥がした「ありのまま」の対象の姿を捉えられる。ふだん人の目に触れない無意識の世界を意識化して、自分ひとり眺めて愉しんでいる。「えも言われぬもの」を「えも言えるもの」にした特権的な知覚を味わっているというか。
 ヌードを見るだけでは飽き足らず、ヌードからさらにアウラを取り去って、もっと生々しい「ネイキッド」を貪り見るような、「そんな奥のほうまでえぐっちゃうの?」という悪趣味を感じる。同時にとことん魅惑的な行為だとももちろんおもう。

 作中では途上から、偽の箱男が登場する。箱男も見られる立場になってしまうのだ。
 見る・見られるの立場が目まぐるしく入れ替わり、どんどん荒唐無稽な話になっていく。
 おもえば一方的に見る存在だった箱男も、作中の存在ということは、これを記述している作者がいるということであって、ハナから見られている存在だとも考えられる。読者だって箱男の動きを逐一紙面を通して覗き見しているのだし。話がドタバタになってくると、いつ誰の立場が入れ替わることかわからずハラハラしてくる。ひょっとすると箱男が一方的に読者から見られるのを拒否して、不意に読者を見つめ返してくることだってあるかもしれないと思い至り、ヒヤヒヤしたりもする。

 さらに複雑なのは、読者はこの物語を文章で読んでいるわけで、箱男をビジュアルで捉えているわけではないところ。読み進めるごとに、視覚と思索が交差して入り乱れていく。視覚と思索では、はてどちらがより対象に迫れるものなんだろうか。


 見る・見られるの関係についてもうすこし。
 通常、人は見る・見られるの相互関係のなかで生きている。視線は常に無数に飛び交い、交錯している。もしも視線が目に見えて、その複雑な交わり方や鋭利さが視覚化されたら、きっと圧倒されるに違いない。視線を視覚化した格好の例が、戸谷成雄の彫刻「視線体」だ。チェーンソーで切り刻まれた木塊の苛烈さ。視線って怖い。

 視線が飛び交うところでは、他者との絶えざる交わりが生じ、それはほとんど闘いみたいなものだ。神経が休まる隙もない。
 視線が飛びかわない場所にひとり閉じこもるか、箱男のように一方的に見る立場に身を置いて初めて、人はひと息つける。そこでようやく思索は始まる。小説家や絵描きは、外界で体験した視線の行き交いを思い出して、ひとり表現をかたちづくる。

 生物が目を獲得したのは、カンブリア紀のことだったとされる、水中にいた生物があるとき視覚を得た。他は目を持っていない状態のとき、一方的に見る側だったその生物は圧倒的な強者になれた。自分だけが相手を見られるので、狙いを定めて獲物を食べ放題。
 やがて他にも目を獲得するものが出てくると、見る・見られるの関係が生じて、そこからは絶え間ない視線の交錯と戦いが続いてきた。

 ずっとのちになって、人類が地に広がり出す。もちろん人類も視線の交錯のなかで闘い生き抜いてきた。外界では常に気が抜けなかったが、洞窟のなかにはいると、人は初めて、ほかの生物から見られることを避けられた。ひと安心しながら、記憶を反芻しながら一方的に相手を見た。その結果として、みごとに生き生きとした壁画を描き残した。
 安全な場に身を置く、すなわち「見る」ばかりの立場にいてこそ、表現は可能になるのだ。一方的に見ることを覚えたときに、絵画などの表現は始まった。

 外界に身を置いていると、一方的に見る関係にはなれない。表現をするには、安全地帯やひとりになれる空間に身を置くことが必要だった。けれど、写真の誕生はその前提を変えた。カメラは覗き見と不意打ちが可能な装置だったから、外界でも一方的に見る立場をつくり、イメージを狩り取ってこれるのだ。

 相手がこちらを見ている肖像写真はどうなんだ? 見るとともに見られているじゃないか、という疑問が出てくる。
 撮られる側の視線が撮り手に注がれているのはたしかだ。でもそれは目がカメラのほうを向いているというだけで、撮り手の生身にまで視線は刺さってこない。撮る側はレンズの向こうの暗箱のなかの安全地帯にいる。ちょうど箱男みたいに。箱を超えて相手が襲ってくることはない。撮られているのを受け入れている相手は、どうせその場から一歩も動けないのだ。

 撮られる側は、一方的に見られていることをわかっていて受け入れながら、せめてもの抵抗を示してこちらを睨み返しているだけ。「こっちも見ているんだぞ」と強がりながら、一方的に見られている自分の立場をなんとか受け入れようとしている。そういうちょっと複雑なプレイなんだろう、肖像写真というのは。

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