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第十五夜 『遊びと人間』 ロジェ・カイヨワ


「文化はあそびの形式の中で発生し、はじめのうち、文化は遊ばれた」
 ホイジンガが『ホモ・ルーデンス』の中でそう書いたのをうけて、「遊び」をより体系的に規定していこうと試みたのが本書。
 カイヨワは文学者、社会学者、美学者にしてジャーナリスト。こういう総合的な知の探索者がたくさんいる時代と地域のほうが絶対的にすてきだ。

 カイヨワはびしっと端的に遊びの定義をする。
1、強制されない自由な活動。
2、あらかじめ決められた明確な空間と時間の範囲内に制限・隔離された活動。
3、未確定の活動。ゲーム展開が決定されていたり、先に結果がわかっていたりするのではなく、創意の余地がなければ。
4、非生産的活動。財産や富、いかなる種類の新要素も作り出さず、それが終われば勝負開始時と同じ状態に帰着すること。
5、規則・約束事にしたがう活動。この約束事は通常法規を停止させ、一時的に新しい法を確立する。
6、虚構の活動。非現実という特殊な意識を伴っていること。
 これらに当てはまるのが、遊びだ。たしかにどれもなるほどと唸らされるものばかり。

 さらにカイヨワは、遊びの四つの基本範疇を指し示す。
 競争、運に身をまかせること・偶然、模擬あるいは表現、眩暈と失神だ。
 これらが実際にどんなかたちをとって私たちのもとに表れるかの例は、以下の通り。
 競争は、スポーツ。偶然は、賭博。模擬は、舞台芸術。眩暈は、村祭り。
 ただし気をつけないと、それぞれは堕落の形態に陥ることもある。すなわち、
 競争は、暴力に。偶然は、迷信に。模擬は、狂気に。眩暈は、中毒に転化しがちなことに留意しよう、と。

 人は遊ぶものであり、生きるとは遊ぶことだと、ホイジンガやカイヨワは教えてくれる。
 カイヨワは、遊びの重要性を強調した最初の人としてシラーを挙げて、彼のこんな言葉も紹介している。
「人間はその完全な意味で人間である時にのみ遊ぶのであり、また遊ぶ時にのみ、完全な人間であるのです」

 日本でも古くから、「遊びをせんとや生まれけん」とうたわれてきたことでもあるし。遊びはますます尊ばれてしかるべきかもしれない。いや、尊んだりしちゃいけないか。わたしたちの存在や生は遊びそのものだということを、受け入れ味わおうといったところだろう。


遊びと人間

ロジェ・カイヨワ

講談社学術文庫

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