「セールスマンの死」

 小さいニュータウンの、端っこにある二階建て分譲住宅。そこがセールスマン宅井龍馬の自宅だった。
 窓という窓には雨戸が立ててある。外壁はくすんでいて、もとが何色だったかもう分からない。
 町が丸ごと眠り込んだ夜更けに、龍馬はようやく家へ帰ってきた。商売道具の見本入りアタッシェケースを両脇に抱え、靴底をアスファルトに擦り付けながら玄関までのたのた進む。
 ドアの前までなんとかたどり着くと、ポケットから鍵を取り出し中へ入る。
 アタッシェケースを引っ張り込んでドアを閉め、上り框にへたり込んだ。
 力なく両腕を振って、痺れを紛らす。ゆっくり手のひらを開いて閉じて、また開いた。
 彼は肩を落として脱力しきっている……かと思いきや、首の脇にスジが浮き上がっていた。それどころかキシシ、と嫌な歯軋り音まで立てた。
「やれやれ、だ。俺ぁもう六十の坂を越えてるんだぞ、まったく」
 それだけ独りごちると、龍馬はのろり立ち上がって、カーテンで仕切った戸口を通り台所へ入っていった。
 二階で寝ていた妻の凛子が物音で目覚め、寝巻きの上にカーディガンを引っ掛け階段を降りる。
「どうしたんです、驚いた。今日お戻りになるなんて」
「いやだいじょうぶだ。別に何もない」
「もしかして車で事故でも?」
「そんなはずはない、何でもないと言ってるだろう。ただ……」
「気分がすぐれない?」
「ああ、それだけのことだ。疲れた。死にそうだ」
「今日はどこまで行ってらしたの」
「横浜の奥のほうだよ。途中コーヒーを飲もうとファミレスに寄ったんだが、あれがよくなかったんだろうな。きっとコーヒーのせいだ」
「何が?」
「飲んだあと、急に運転ができなくなった。知らず車体が左へ左へ寄っていくんだ。整備に出す時期じゃないかって? そういうことじゃない。気づくとスピードも出ていてな。いつの間にかずいぶん道のりが進んでいるんだが、その間の記憶がないんだ」
「あなた、休息が必要なのよ。家にいる日が増えたといっても、心が休まっていないんです。気を遣いすぎるから」
「そうかね。ともかく朝になったら、また出かけるよ。眠れば気分も直るだろう。遅れを取り戻さなくっちゃ」
「そうね、お着替えになって、気を楽にして。……やっぱり本社に行って、内勤にしてもらえないか掛け合ったらどうかしら」
「先代なら話は早かったろう。俺が何を成してきたか、ようく分かってるだろうからな。だが息子のほうじゃ話にならん。都内より神奈川地区を押さえるのがどれだけ重要か、分かっちゃいないんだ。あの辺の取引先から俺のように好かれてる人間なんて他にいないってのにな」
「あなた、こちらにお着替え持ってきましょうか? 今は早く床につかないと」
「鹿男は二階でどうしてる、もう眠ってるのか? ベイスターズのナイターがどうなったか、あいつの口から聞けばいい気晴らしになるが」
「あなた。鹿男は出ていったでしょう。車の調子が悪いというなら、あの子のいる工場に出せたりもするでしょうけど」
「そうだったな。あいつは職場で、ちゃんと人に好かれとるのか。それが社会じゃいちばん大事だからな」
「大丈夫ですよ、優しい子なんですから。それより早く床についたほうが」
「ああ。今はただ死んだように眠りたいよ。それでとにかく明日、本社へ行ってみよう。あのドラ息子だって分かってるはずなんだ。先代と俺がどれほど苦労を重ねて、お前がふんぞり返ってるその立派な椅子を用意してやったのかってことくらいは。さあもう眠ろう。明日は車の調子がすっかりよくなっているといいが……」

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