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五十年間失敗し続けた男 平田靫負伝 3 腹を裂く理由  20220114

 知らず止めていた息を吐く。と平田は、室の異変に気づいた。
 生臭い!
 くさいのは息か、血の匂いか。違う、己の全身だ。
 毛穴という毛穴から、嫌なにおいが立ち上っている。

 我ながら不快な。においを避けようと、身じろぎした。その拍子に短刀が腹をぐいと食み、切先は弾力ある筋繊維に潜り込む。
 溢れる血の勢いが増した。下腹部全体が朱色に染まっていく。

 い、痛いではないか!
 これは、大ごとだ!

 遅まきながら平田は慌てふためいた。
 人の皮はこんなに薄いのか。筋は薄皮のすぐ下で、かくも無防備に貼り付いているのか。
 この期に及び騒ぐなどみっともないと思うかもしれぬが、致し方ない面もある。平田はこれまで一度も人を斬ったことがないゆえ。

 確かに刀を抜く機会はなかった、しかしそれは、と平田は思う。
 己の身分職責や本分を考えれば、已むを得なかったのだ。
 薩摩の地で勘定方家老の長男に生まれたのが我が命運。生まれついて藩の興隆を担う立場なれば、切った張ったの渦に無闇に飛び込み巻き込まれるなどもってのほか。
 己を厳しく律してきたまで。何のやましいことがあろうか。
 この一事をもって弱いとか臆病などという判断には及ばぬ。

 そう心中で強弁する。が、その間にも、鮮血は傷口からとどめなく流れ出る。猛烈に痛んできた。さらに平田は感じ始める。
 怖い!
 と。恐慌を来たし、意識が混濁してくる。頭の芯のあたりを後悔の念が領した。脳裏の暗闇のなかには、ひとつの自問の言葉がひらひらと舞い続けた。

 失敗か? 失敗だったのか、この行ないも、また?

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