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日本百名湖 四尾連湖 (4)

 汀にしゃがみ込んでいると、ふと凪いだ。数ミリの波も収まって、湖面はいま真っ平らになった。気づけばそこに巨大な鏡面が現れている。
 深い森の中にできた湖面鏡は、そこに何を映すのか。空の青と、雲の白と、樹々の緑、ただそれだけ。きっと何百年も、何千年も飽かずこの鏡は、同じ光景を映し出してきたんだろう。
 煌めいて湖面に浮かぶ青、白、緑の色が、すこしだけ滲んで溶け合っている。
 ただただ、陶然とする。
 湖面に映る色とかたちを、ひたすら受け止めていればいいことの快感があった。
 そこから意味など読み取らなくたっていい。かすかに揺らぎ変化し続ける色とかたちの美に酔い痴れて、思考を働かせないで済むからか、アタマが軽くなった気がする。
 視覚が自働化していることと関係があるのか、聴覚が鋭敏になっている。ゥブゥウ、という只事じゃない音が耳に入って驚くと、それは背後の草叢にいたアブの羽音だった。音が湖面に反射し増幅されているのかもしれない。
 アブの羽音だけじゃない。対岸にひとり釣り人がいるのは気づいていたが、彼のくしゃみの音が湖面を滑ってきて、くっきりこちらの耳まで届いた。

 一一一七メートルある大畠山の懐に抱かれるかたちの四尾連湖は、湖面標高にして八八〇メートルもある。地形が崩壊してできた窪地に水が溜まる「陥没湖」の類と考えられており、流入流出する川を持たない。
 甲斐国きっての景勝地として古くから知られ、江戸時代には富士五湖、泉水湖、明見湖とともに富士八海のひとつに数え上げられた。
 「志比礼湖」「神秘麗湖」などと書かれることもある奇な名称は、ここに尾崎龍王という四つの尾を連ねた龍神が住んでいるとの言い伝えからきている。
 雨乞いの地としての云われも持つ。
 そのむかし、ある夏の日に武者修行の兄弟が湖水へとたどり着いた。
 兄が眺めに見惚れていると、弟がいきなり顔面蒼白となって息絶えた。
 何事かと構えれば、湖面全体が盛り上がり、巨大な角を持つ怪物が眼をギラつかせながら現れた。その咆哮は山々にこだまし、遥か彼方にまで届いた。
 兄武士は怯まず、弓に矢をつがえてひょうと放つ。見事命中し、怪物の鮮血で湖面は真っ赤になった。湖面をのたうち回る怪物が全貌を現すと、怪牛であった。足掻く姿のあまりの凄まじさに魅入られたようにして、気丈な兄も息絶えてしまった。
 しばらくの時が経ち、湖面が静けさを取り戻したころ、近郷の村人たちは兄弟を哀れに思い、手厚く葬ることとした。
 すると、その夏を通して日照り続きだった空が俄かに掻き曇り、雨が降り出した。干ばつに苦しんでいた村人は救われた。
 以来この地で旱魃があると、農民は牛の首を背負って山を登り、鐘や太鼓を鳴らして湖畔を巡り、綱をつけた牛の頭を投げ入れ雨乞いをするようになった。
「四尾連の海の黒雲、主を殺した腹いせに雨を降らせ給いな」
 と唱えると、天はにわかに掻き曇り、山を下るのが間に合わず激しい雨が降ると言われている。

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