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「完璧の誕生 〜レオナルド・ダ・ヴィンチ手稿発見顛末〜」 9 《モナ=リザ》のための第三日 〜 ローマの支配者のもとで

 これまでいろんな土地を渡り歩いてきた私だが、そろそろ生涯も閉じようかという段になってローマへ身を落ち着けることになろうとは。
 フィレンツェにミラノ、大きな都市はつぶさに見てきた。いまさら驚かされることもなかろうと思ったものの、教皇のおわしますヴァチカン建築の偉容と威厳にはさすが圧倒される。巨大さは無条件に人の気持ちをひれ伏せしめる効果がある。これが人の造り出すものの極限の規模かもしれぬ。
 この地に私を呼び寄せたのは、旧知のジュリアーノ・デ・メディチである。
 故郷たるフィレンツェからヴェネツィア、そしてここローマ。私と同様にジュリアーノも、身を置く地を転々としたクチである。だがいまはここローマに骨を埋めんと、固い決意をしたことだろう。
 というのも彼はローマでようやく、生まれの良さを活かせそうなのだから。
 驚くなかれ、彼はフィレンツェの支配階級にして欧州の金融経済を牛耳るメディチ当主家の次男坊。だが、生まれた年回りが少々悪い。
 ジュリアーノの若かりし頃にメディチ家は、フィレンツェ市民との関係が悪化。一族は市政から追われた。
 十五歳のジュリアーノも、亡命同然にヴェネツィアへ移らざるを得なかった。
 雌伏の時期を耐えたジュリアーノと一族は、やがてめでたく復権。フィレンツェでの地位を回復した。
 どころか勢力はますます伸長する。ジュリアーノの兄ジョヴァンニが、教皇の座まで射止めてしまった。レオ十世を名乗り、ヴァチカンの中心に君臨することとなったのである。
 兄から教皇の補佐を任ぜられた弟ジュリアーノは、勇んでローマへと赴くことと相成ったのだった。
 ただしジュリアーノは、権謀術数が渦巻くまつりごとに幼少時よりまったく関心がない。
 ならば私はせめて、永遠の都を大いに飾り立てましょう。そう言って芸術振興に力を尽くすことを兄と約した。
 ジュリアーノは手始めに、フィレンツェ時代から馴染みのレオナルドを芸術顧問に招請しよう。そう考えてくださった。それでいま私がこうしてここにいる。
 ローマこそは、いにしえと最先端の技術文化が集まり来たる永遠の都。ここに身を置けるのは僥倖のかぎり。
 とはいえ人には言えぬわだかまりが、なくもないのだが……。
 というのもここでは教皇の威光のもと、建築、彫像、大壁画などなどの制作が常に進んでいる。いわば「創造の都市」。表現を志す者なら誰もが、「ならば我が創りしものも見よ」と名乗りを上げたくてウズウズしている。
 そんな地に私は、創作を求められて招じられたのではない。「この壁画を」「こんな彫像を」との依頼を帯びていない。いわばコネによる来訪である。
 ああ、情けないことだ……。
 それでも、沈んでばかりではいられぬ。気を持ち直して日々を充実させるのが肝要だろう。そうして創作で結果を残しさえすれば、きっとまた振り向いてくれるはずだから。
 また振り向いてくれるはず……。私はいまたしかに「また」振り向いてくれると思った。「また」と言うからには、注目と賞賛を一身に浴びた覚えのあるはず。
 だが。思えばそんなときはこれまでになかったのだ、私には。
 何となく長く技芸家として生きてきたから、都合よく記憶を貼り合わせているだけな気がする。
 所詮はろくに作品を完成させられない技芸家である。期日に間に合ったこと、依頼者を真に満足させられた経験などが一度でもあっただろうか? いや思い浮かばぬ……。
 これも老境の身にはよく起こることなのか。やたら後悔の念ばかり頭に浮かんだり、心持ちが大きく揺れたりするのがしょっちゅうなのである。
 勝手のわからぬローマに独居して、知らず心細さを感じてもいるのだろう。そんな私の心の支えになってくれるものといえば、携えてきた一枚の絵のみだ。そう、もちろんその一枚とは《モナ=リザ》である。
 この絵だけは、まだ……。後世に伝えるべき価値ある一枚となる可能性を有している。もちろん我が命尽きるまでに完成させられれば、という条件が付くのだが。
 ささくれ立った私の内心を慰めてくれる唯一の絵はいま、あてがわれた優雅なアトリエに掛けてある。ヴァチカンにもほど近い、ベルヴェデーレ宮殿の一角に用意された一室。タイル敷きの床上に置かれた松材製の調度が重々しい。「アトリエとして使うのだから外せぬ」とたったひとつだけ条件を出した北向きの窓は、申し分ない大きさが採ってある。
 よく整った清潔な室内で画架に載せられた肖像画の表情は、安逸な環境を得たからかいつもより柔和に見えた。
 くわえて今日の《モナ=リザ》は、どこか人待ち顔のようにも感じられた。
 待ち人は、ひょっとして彼だろうか。私をローマにまで招請し、この快適な住まいを含めすべての手配を整えてくれた張本人。ジュリアーノ・デ・メディチが、まもなく訪れることになっているのである。


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