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日本百名湖 二 本栖湖

 甲府方面から、富士山麓へと入った。
 樹海の中は方位磁針も効かぬ不穏な異界だ……、といった話はよく聞くけれど、実際に富士の領域に身を置くと、明らかに外界とは違うものを感じる。軽く狂おしい気分が襲ってくるのだ。
 ああヘンだ、何かがおかしい。
 そうつぶやきながら昼なお暗い森をクルマで突っ切り、本栖湖へと近づいていく。
 湖畔の駐車場で停まった。森を抜けて開けた場所に出たというのに、そして天候も悪くはないのに、辺り全体が重いフィルターをかけたようにほの暗い。この空気がぎゅっと詰まった感じが、一帯の通常の様子なのかなと思う。
 ゴロゴロとした石を踏み踏み湖面へと近づく。遠浅ではあるけれど、最深部は121メートルと富士五湖で最も水深がある。
 水は澄んでいる。あまりの透明度に、そのまま水底の黄土色の石くれが見えてしまう。角度によっては、どこから湖面が始まっているのか、水際がよくわからなくなってしまうほど。湖水透明度でいうと本州で一番であるという。
 湖面を眺めていると、海のような伸びやかさと広大さ、横方向にどこまでも伸びていく引力を感じる。それもそのはず、ここはかつてもっともっと広い、海のような湖だった。それが9世紀の富士山の噴火で溶岩が流れ込み、分断されいまの本栖湖部分が残った。溶岩で分断された水辺の片割れは今の精進湖や西湖である。
 富士五湖の中で最も奥まった位置にある本栖湖だけど、じつは誰にとっても馴染みがかなり深い。というのも、千円札に印刷されている富士山。麓の湖面にも山容が映り込んで、いわゆる逆さ富士が見えているあの光景は、本栖湖畔から見た富士山の様子なのだった。
 デザインの素となったのは、「最初の富士山写真家」と呼んでいいであろう岡田紅葉の撮った「湖畔の春」という写真作品である。湖畔からしばしの山登りをすれば、紙幣に刻まれているのと同じ光景がいまももちろんそこに厳然としてある。

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