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第九夜 『ニュー・アトランティス』ベーコン

「わが学院の目的は諸原因と万物の隠れたる動きに関する知識を探り、人間の君臨する領域を広げ、可能なことをすべて実現させることにある。」

 「ユートピアもの」の系譜というのがある。理想郷での見聞録のかたちをとる物語で、トマス・モアの『ユートピア』、スウィフトの『ガリヴァー旅行記』……。この『ニュー・アトランティス』もそのひとつ。

 経験論の祖とされる思想家フランシス・ベーコンによる一編は、知性と理性が統べる完璧なる世界の様子を垣間見させてくれる。未完の作ゆえ矛盾や破綻が訪れておらず、理想郷らしさが際立っている。

 欧州から航海に出た船が太平洋で漂流してしまう。流れ着いた陸地は、恐ろしいほど豊かですべてが秩序立った国だった。

「天使の国に来たようだ」

 と航海者たちは息を呑む。

 どのようにこんな社会を築いたのか。ある時点での、王の決断が大きかったという。

 自身の治世が幸福と繁栄の只中にあると見てとった王は、ここぞとばかり異邦人の入国禁令を出した。なんとならば、これからこの国が変わるとすれば、悪くなる可能性は山ほどあるとしても、これ以上良くなる道はほとんど考えられぬ。いまを永続させること、それを唯一の目的にせん。という判断から。

 王国の叡智の中心ともいうべき施設は、サロモンの家あるいは学院と呼ばれた。そこは最高学府であり、

「わが学院の目的は諸原因と万物の隠れたる動きに関する知識を探り、人間の君臨する領域を広げ、可能なことをすべて実現させることにある」

 とされた。

 理想の自然科学研究のための設備とそれを実用に移す製造拠点を併せ持ち、また完全なる法律、政治、経済体制についての見取り図も研究・考案されていた。

 サロモンの家の詳細は、原稿が途切れて語られないままになってしまった。残念ではあるけれど、そこを追究し始めたら一編の小説にはとうてい収まらないものになろうし、致し方ないところか。

 目に見えないもの、いまここにないものを思い描いたり共有するうえで、物語という器は非常に有効に働く。最初は単なる想像とか仮説に過ぎないものに、ひとつの物語としてかたちを与えていく作業は重要だ。それを足がかりにして、現実も動いていくものだったりもする。

 実際に『ニュー・アトランティス』のサロモン学院という構想は、英国で後の科学者たちに受け継がれ、学問探究の拠点「王立協会」設立へと繋がった。

 ベーコンのユートピア物語は、なんて射程が長いものだろう。21世紀に生きる僕らにまで、これほどの強い影響を及ぼしてくる。


ニュー・アトランティス

ベーコン

岩波文庫

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