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作品に「実感」を込めるにはどうすればいい? 〜ケン・ローチと是枝裕和の作品から考える〜

 作品のあらゆる場面を、実感で埋め尽くせ。
 そうすればきっとおもしろくなるぞ。そんな話が、界隈で浮き上がってきた。
 たしかに、それさえあれば作品はどんな細部もきっとおもしろくなる。出来事の大小や深刻度、人物の美醜や好悪なんかとは関係なく、実感がこもっていることを感じられて真に迫っていれば、読む側はその話に夢中になれる。
 では、どうしたら作品に実感を込められるのか。強く念じればそうなるわけでもなし。
 具体的に考えていくには、お手本を紐解くしかない。
 登場願うのは、英国の映画監督ケン・ローチ。彼の作品はいつだって、あらゆる場面が切実さと実感にあふれているから。それはもう途中で観るのが辛くなって、投げ出したくなるほどに。
 最新作は『家族を想うとき』だ。宅配ドライバーとして苛烈な労働をしながら、ホームヘルパーの妻、高校生の息子、小学生の娘という家族をなんとか守ろうともがく男の話。
 彼が家庭と家計を保とうと一所懸命なのは疑い得ない。それなのになぜか、彼ら家族の生活はもがけばもがくほど窮屈になり、見えない何かにがんじがらめにされていく……。
 家族みんなのダメっぷりが、どうしようもなくリアルだ。もうちょっと言い方気をつければいいのに、少しだけ欲張らず気を配れたらいいのに、あと一踏ん張りなのになぜそこであきらめる? などなど。「ああもう!」と思いつつ、身につまされる感じのすることばかり。まるで自分や周りの人のふだんの行動をトレースして見せつけられているみたい。
 ケン・ローチはなんというか、作品内のすべてについてごまかしたり、嘘をついたり、包み隠そうとしない。これだけ徹底してやればそりゃ実感も伴うはずだ。
 ここで、観ていて目についた「ケン・ローチが実感を生み出す手法」を、3つとりだしてみる。

1 テーマは大きく持て。

 作品に実感を強く纏わせるためには、テーマはできるだけ絞って身近なものにしたほうがいい気もするが、どうやらそうじゃなさそう。
 ケン・ローチは毎作、描きたいものがきっちりあるように見える。
『家族を想うとき』ならそれは、「労働とは?」だ。これが今作のテーマ。
 常軌を逸した労働を強いられ続けたとき、人間性はどうなる? どこまで保てる? または、どう損なわれるのか? そんな大きなテーマの海の中に、具体的なひとりの人間を落として溺れさせ、そのさまを冷徹に観察する。これがケン・ローチのやり方。
 彼は筋金入りの社会主義者だというから、社会問題に対する思想的な深みはもちろんじゅうぶん。揺るぎない考えのもとで設定された大きなテーマのもと(労働の非人間性)、必然性ある状況設定がつくられ(現代英国の労働者階級の非人間的労働環境と暮らし)、そこに典型的人物が投下される(落ちこぼれのダメ親父な主人公)。
 大きなテーマから降ろしていくからこそ、これだけリアルな環境と人間が描けるのだ、きっと。

※すこしだけ脇道に逸れると、思想やイズムの強さや使い勝手のよさたるや、すごいものがあるとそれこそ実感する。「イズム」とは人をして何かを成し遂げさせる原動力としてひじょうに優れているようだ。思えばアートの世界でも、近代以降はとくに「イズム」ばかりが押し寄せて歴史をかたちづくっている。印象派、ポスト印象派、象徴主義、キュビズム、抽象主義……。文学も同様。ロマン主義、自然主義、云々。時代のうねりをつくるのに「イズム」は大いに活用されてきた。いまの日本では、イズムなんてすっかり鳴りを潜めている。イズムなき世の中でものをつくり続けるなんて、いまの表現者も皆よくがんばってるなと素直に思うところだ。


2 登場人物は容赦なく追い詰めよ。

 ケン・ローチは作中人物の追い詰め方が抜群だ。躊躇なく全員を八方塞がりの状態へと追いやっていく。
『家族を想うとき』の主人公を追っていればもれなく思う。彼にもうすこし知恵や「学」があればなあ。忍耐と自制ができるよう教育されてきていれば、うまく立ち回れるのにねえ、などと。事実として彼はそういう人間じゃないので、惜しいところで必ず失敗のほうへと転がっていく。上司を怒らせ、息子に余計なひとことを言い、客に悪態をついてしまう。ダメダメである。
 でも考えてみたら、自分も含めてたいていの人はそうだ。惜しいところで一歩間に合わず、我慢ができなくて、失敗を繰り返すのが常だろう。
 宅配ドライバーの主人公を見ていると、彼の失敗はまさに必然だと感じられる。この状況だったらやっぱり彼はそうなっちゃうよね、という有無を言わさぬ説得力と納得感がある。そうしてさらに、まあ同じ境遇に置かれたら自分もそうなるよな……とも切実に思わせる。
 彼の失敗は観ているわたしのものでもあり、さらには地域や時代を超えた人間の業を表しているよう。つまり彼の言動は普遍的なものとみなせる。徹底的に人物を追い詰めていけばこそ得られる成果だろう。
 ちなみに『家族を想うとき』の前作『わたしは、ダニエル・ブレイク』での、人物の追い詰め方も苛烈だ。
 主人公の初老の男性は、職安でとあるシングルマザーと出会う。人を頼ることを知らぬ彼女を促して、彼は自治体がやっている食料配給所へと彼女を連れていく。
 会場で係の人に連れられ、必要なものをどんどんカゴへ入れていく彼女。飲み物は? ここにあるから好きなだけとって。次は缶詰ね。日用品もこっちにあるわ、と。
 係の人の目が離れた瞬間、シングルマザーの彼女は、棚にあった配給品のパスタソース缶詰の蓋をおもむろに開けて、手掴みで口へと運んで啜り出した。服もソースまみれだ。
 お腹が空きすぎて、目の前に食べるものがあるとわかったとたん、抑えが効かなくなったのだった。ものすごい迫力とリアリティ。こんなのどうやって思いつくのか。取材を重ねているんだろうか。
『わたしは、ダニエル・ブレイク』の場合も、大きなテーマがきちんと設定されていると思われる。それは、「人間の尊厳とは?」とでもいうべきものだろう。

3 描く出来事を上手に選択せよ。出来事のピークをハズして描写せよ。

 映画は、そして漫画も小説も、具体的な何かを描かないといけない。ケン・ローチは何を描き何を描かないかの選択がひじょうに的確だ。
 選びとった「描くべき事柄」の扱い方もまたうまい。その出来事のピークを外し、ピークの前後を手厚く描くことで、観る側自身がいろいろと気づいていくよう仕向けているのである。
 たとえば、主人公一家の家計は苦しい。それをどう示すべきか。下手な演出だったら、妻が夫から受け取った給料袋を開けて、家計簿をつけながら「はあっ」とため息をつくとかしそうだけど、ケン・ローチはもちろんそんなことしない。
 ただ夫妻の寝室をたずねてきた娘が何か心配ごとを話す、いいから心配せずにおやすみと言われて出ていったあとにそのドアをちょっと長回しにして見せるのだ。閉まる音からして、ずいぶん薄っぺらなドアだとわかる。ドアノブがちょっとグラつき、その付近は黒ずんで汚れている。続いてベッド脇のカーテンも映る。品のないプリント柄で覆われていて、生地もテロテロである。あからさまな「貧乏」の記号を出すのではなく、細部をじっと映すことで一家の暮らし向きをよくよくわからせている。
 また、介護の仕事に従事している妻は、よく子どもたちに電話をかける。今夜も遅くなるわ、冷蔵庫にピザがあるから、と。これが毎度、「冷蔵庫にピザ」が繰り返される。母として子を気遣うのだけど、夕飯はいつも冷凍のピザだけ、なのだ。
 こうしたエピソードは貧乏っぷりを表すピークとは言えないけれど、ああ、暮らしが楽じゃないんだなと思わせるものを静かに積み重ねていくことで、いかに苦境が根深いかを示している。


 ケン・ローチに憧れながら日本で映画をつくっている作家に、是枝裕和がいる。
 では是枝作品に、ケン・ローチほどの実感があるか。あるにはあるが、ところどころに留まっているように思う。
『そして父になる』は、出生時に子どもが取り違えられていたことが、5年経ってからわかるという話。子どもを交換することとなる二組の夫婦の葛藤が描かれる。
 視点人物は、福山雅治演じるエリートサラリーマンだ。タワマンに住んで、子にピアノを習わせている。レッスンするシーンもあるのだけれど、これがとってつけたようなピアノレッスンの定型をなぞった描写になっている。リアリティがない。そもそもタワマン族が子どもに習わせるなら最近はバイオリンのほうが主流じゃないのか。小金持ち=ピアノという短絡な思考に見える。
 福山は家に帰ってもリビングで、書斎でと場所を問わず仕事をする。忙しくて子どもの相手もろくにできないことが強調されるのだけれど、その仕事というのが、図面やプレゼン資料的な紙の束をバサバサやるだけ。何かをチェックしている風でしかないので、そこにリアリティは生まれない。
 もう一方の家庭が庶民的なので、福山の過程は裕福で何不自由ない暮らしをしていると見せたいのだろうけど、それを表すのが、ホームパーティーで子どもがケーキの蝋燭を吹き消すシーンだというのはいただけない。そんなシーンは誰しも見飽きているし、「こっちの家庭は恵まれてるほうってことね」という情報くらいしか得るものがない。
 是枝監督は、信頼する役者ばかりを繰り返し使うタイプ。役者の演技が魔法をもたらし、リアリティが生み出されるのを期待しているのかもしれないけれど、毎回奇跡は訪れない。
 つくり手は、もっとすべてを設計するべきなんだろう。ケン・ローチのように念入りに。それでもはみ出してくるものがあれば、もちろん取り入れてしまえばいい。
 ましてや漫画や小説には、外からリアリティを持ってきてくれるかもしれない役者のような存在はいない。「登場人物が勝手に動き出す」という幸せな状態がやってくることもあるとは聞くが、それも作者の完璧な差配によって人物が自在に動けるようになったというまでのこと。
 作者は、あらゆる細部を計画せよ。それを楽しみとせよ、だ。


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