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「セールスマンの死」1   20210928

 梅雨時の水曜日、帰宅ラッシュの時間だった。仕事を終え東京から千葉へ戻る人を詰め込んだ総武快速線が、耳障りな高音を響かせながら江戸川にかかる鉄橋を渡っていく。

 視界に入る乗客全員が肩をすぼめスマホ画面に没入しているのを、何の感興も湧かぬままただ眺めていた。降車する千葉駅はまだ遠い。

 ふいに胸元が激しく震えて、喉から呻き声が漏れた。慌ててジャケットの内隠しに手をかける。こんな夜分にスマホが着信するなんて、よほどの緊急か。すわ何事と考えを巡らすも、すぐにああそうかと目星はついた。
 とはいえいまは身動きもままならず、応答もしづらい。ブブブ、ブブ……としつこい板片を、ジャケットの上から手のひらで押さえつけてやり過ごす。足裏を絶えず突き上げる車両の大きい揺れと、小刻みに胸をくすぐる振動が混ざって体内で不協和音が鳴る。えずきそうだった。

 着信が途絶え、ようやく息をつく。発信先の確認くらいできたが、しなかった。ここは狭苦しい。違う空気を吸いたかった。せめてもと車窓に目をやるも、外は月も出ぬ黒闇で何も見えない。代わりに反射で、車内の人群れがくっきり映し出されていた。
 皆が俯きスマホに見入るなか、ひとり顎を上げる人物と眼が遭った。むろん自分だ。あまりに表情が虚ろで驚いた。夜分のせいか無精髭もずいぶん青々と目立つ。そしてこの生気のない顔には、見覚えがある……。
 鏡を覗き込んだという話ではない。つい先日これとよく似た、ただしもっと極限まで痩せ細った顔と私は対面したのだ。
 そうあれは、死相の浮き出た父の顔だった。

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