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月夜千冊 第六夜『きことわ』朝吹真理子

 ふたりの少女が葉山で出会い、夏の時間を過ごす。永遠子と貴子は年齢こそ違えどよく通じ合い、他の者がとうてい入り込めない世界をふたりで築いている。

 ふたりだけの世界が確固としてそこにあると感じさせるのは、彼女たちの言動というよりも、叙述のしかたによる。ふたりが特別なことをしたり言ったりするのではなく、濃密な関係が理屈で説明されるのでもなく、ただただ五感に訴えかける描写を積み重ねることで世界を構築している。考え抜かれ、磨き続けられた言葉が作品のなかに充満していて、詩的な文章だけで小説がなされている。読むことそのものが快楽。

 たとえば海辺で遊ぶふたり。貴子の目に入ってしまった睫毛を、永遠子がとってやろうとする。


「貴子の下まぶたに、永遠子は自分の手をそっとあてる」


 永遠子の手は冷たい。なんとかうまく睫毛をとることできて、ありがとうと貴子が抱きついてくる。


「貴子の皮膚はやわらかく、虫にさされやすかった」


 そして、


「貴子からたちのぼる蚊よけの薄荷のにおいによって、永遠子は自分の肌からは日焼け止めの甘いにおいがしているのがわかった」


 視覚だけじゃない、読む側のあらゆる感覚器官が、ことばによって刺激されていく。

 出会いから二十五年が経ち、大人になって再会したふたりのやりとりも、変わらず五感に働きかける。


「永遠子が手を離そうとすると、『ありがとう』と言う貴子のしめった息が手首のうらにかかった」


 官能的に過ぎる。

 自分の印象や感覚よりほか、依って立つものなどなにもない。この作品のなかはそういう原理でできているから、時間の流れ方も主観的で独特のものになる。カップラーメンを待つ三分間は、


「これだけ時間があれば宇宙の基礎くらいきっとできる」


 と宇宙生成と結びつけられていくし、子どものころの永遠子と貴子がじゃれあっているときに大人が発した、


「こうしているうちに百年と経つ」


 ということばは、二十五年後にもふたりの記憶に残っていたりする。


「百年」ということば、ここでは「永遠」と同義で用いられている。厳密さのかけらもないこの使用法のとき、百年というありきたりの単語が艶を帯びていい。

 夏目漱石『夢十夜』と同じ用法だ。第一夜、女が静かな声で「もう死にます」。死んだら埋めてほしい、いずれまた逢いに来るからと。そうして、


「百年待っていて下さい」


 という。


「百年、私の墓の傍に坐って待っていて下さい。きっと逢いに来ますから」


 この百年は、一世紀という数学的・実際的な長さじゃなくて、どちらかといえば永遠の意。永遠を百年と言い、愛していると言うべきところを「月が美しい」などと表現する。曖昧といえば曖昧、けれど厳格に曖昧さを保とうとしているというか、感覚に対して徹底的に忠実であろうとする態度が、文章の美しさを生んでいる。

 そういえば漱石も、第一夜で、


「土をすくう度に、貝のうらに月の光が差してきらきらした。湿った土の匂もした」


 など、五感の発動を示す書き方を随所でしている。

 日本語は、言語なのに感覚的で、だからこそ驚くほどの伸びと膨らみがある。



きことわ

朝吹真理子

新潮文庫

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