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「セールスマンの死」 改


 小さいニュータウンの端っこのほう。狭い敷地いっぱいに建つ分譲住宅が、セールスマン宅井龍馬の帰る家だった。
 彼が戻ったのは、町が丸ごと眠り込む夜更けのこと。
 商売道具の入ったアタッシェケースを抱え込み、靴底を擦りながら玄関ドアまで辿り着く。鍵を取り出し中へ入り、荷を引っ張り込んでドアを閉め、上り框にへたり込んだ。
 痺れ切った腕を交互にさすり、手のひらをゆっくり開いて閉じて、また開いた。
「やれやれ、だ。もう六十の坂を越えてるってのに、まったく」
 力なく独りごちるとのろり立ち上がり、細かいスダレの掛かった戸口を抜け台所へ入った。
 二階で寝ていた妻の凛子が物音で目覚め、寝巻きの上にカーディガンを羽織り階段を降りてくる。
「驚いた。今日お戻りになるなんて」
「だいじょうぶだ。何でもない」
「車で事故でも?」
「そんなはずない。何でもないと言ってるだろう。ただ」
「気分がすぐれない?」
「ああ、ただそれだけ。……疲れた。死にそうだ」
「今日はどちらへ?」
「横浜の奥までな。一度コーヒーを飲もうと車を止めた。あれがよくなかった。きっとコーヒーのせいだ」
「何が?」
「飲んだあと、急に運転ができなくなった。知らず車体が左へ左へと寄る。整備の時期? そういうのじゃない。気づくとスピードも出ていた。記憶がないうちに、ずいぶん道のりが進んでいたんだ」
「休息が必要なのよ。家にいる日が増えても、心が休まっていないんです。あなた気遣いすぎるから」
「ともかく朝になったら、また出かける。眠れば気分も直るだろう。遅れを取り戻さなくちゃ」
「そうね、着替えて気を楽にして。……やっぱり明日は本社へ行って、内勤にしてもらえないか掛け合ったら」
「うん、先代なら話は早かったろうな。俺が何を成したかよく分かってるだろうから。だが息子のほうじゃ、話にならん。奴ぁ都内より神奈川を押さえるのがどれだけ重要か、分かっちゃいない。その重点箇所で取引先からこんなに好かれる人間なんて、俺以外いないってのに」
「今はまず早く床につかないと。こちらにお着替え持ってきましょうか?」
「鹿男は二階でもう眠ってるのか? ベイスターズのナイターの結果を、あいつの口から聞けばいい気晴らしになるが」
「あなた。鹿男はとっくに出ていったでしょう。車の調子が悪いんなら、あの子のいる工場に診てもらえますけど」
「そうだった。あいつ職場で人に好かれとるのか? 社会じゃいちばん大事なことだぞ」
「あの子は優しい性根だから大丈夫。それよりあなた、早く床についたほうが」
「ああ。今はただ死んだように眠りたいよ。それでとにかく明日、本社へ行こう。あの二代目ドラ息子だって分かってるはずだ。お前がふんぞり返ってるその椅子は、先代と俺が苦労を重ねて用意してやったものだってことくらい。さあ眠ろう。明日は車の調子がすっかりよくなっているといいが」

 小ぶりのダイニングテーブルに、レースのカーテンから漏れた柔らかな光が落ちている。
 糊の効いたシャツを身につけた宅井龍馬は、背筋を伸ばして一つの椅子に陣取った。
 キッチンから出てきた凛子が、彼の前に大ぶりのマグカップを置く。それを手に取って口をつけるなり、龍馬は大きな音で舌鼓を打った。
「いいコーヒーだ。これだけで食事代わりになる。活力の素だな」
「ヨーグルトかフルーツでも出しましょうか」
「いや結構。ちょっと座ったらどうだ」
「今朝は元気そうですね」
「死んだように寝たしな。何ヶ月ぶりだろう」
「ぐっすり寝ようと思えば、この辺りはやっぱり静かでいいですね。生活するには苦労しましたけれど。引越した頃に噂のあったショッピングセンターができるって話は結局なしのつぶてですし」
「そういう文句は聞き飽きたな! いつまで言っとるんだ。ここに我が家を構えると決めたのが間違いだとでもいうのか」
「ああ、すみません。あんまり怒鳴っては身体に障りますよ。私はいいにしてもね」
「お前がすぐにそういう無神経なことを言うから」
「そうなんですけど、怒鳴るのだけはどうぞ控えて。今日本社へ行かれるんでしょう?」
「ああ。あのドラ息子の社長にはっきり言ってやる。セールスの仕事はもうたくさんだって」
「その意気があればだいじょうぶですよ」
「意気の問題じゃないんだ。もっとこう、社にとっちゃ重大なことが起こるわけだよ。俺は神奈川のほうじゃ、ちょっとしたものなんだ。名の知れた大物なんだぞ。その宅井龍馬がセールスから身を引こうと宣言するわけだ。こりゃちょっとした見ものじゃないか」
「これからいろいろよくなりそうな気がするわ」
「もちろんさ。もう金輪際ハンドルを握ったりはせんぞ」
 龍馬は上着を肩に引っかけると、揚々と玄関を出ていった。
「地下鉄の階段、慣れないでしょうからお気をつけてね」
 龍馬の背中に凛子はそう声をかけた。が、その音量は龍馬に到底届かぬほど小さいものだった。また余計なことを言って腹を立たせてはいけないと、自制したのだった。今日はあの人にとって大事な日なんだから。とにかく邪魔をしないことが肝心と、凛子は自分に言い聞かせた。
 部屋に戻ると凛子はさっそく、電話の受話器を上げた。今ならまだ息子の鹿男と、出勤前に話せるかもしれない。電話がつながったらぜひ説得しようと思ったのだ。今晩、お父さんと食事でもしてきてくれないかと。


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