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「完璧の誕生 〜レオナルド・ダ・ヴィンチ手稿発見顛末〜」 7 《モナ=リザ》のための第二日 〜 《モナ=リザ》とラファエッロとレオナルドの三角関係

 願いというのは他でもない。ラファエッロ・サンティ、あなたに絵のモデルになってもらいたい。

 絵描きが絵描きの肖像を描くのかって? いや、そうではなくて……。
 これここにあるリザ夫人の肖像。あなたに、その一部となってほしいのだ。
 というのも。あなたはこの絵をひと目見て誉めてくれたし、普遍的な人間を描かんという意図もすぐ見出してくれた。ただ、この絵には決定的に足りないものがある。
 いまはまだ、普遍的な人間の外形を捉えただけだ。この絵は加えて生命の「熱」を、なんとしても帯びねばならぬ。
 地球の内部が、ときに火山を噴火させるほどのマグマで常に熱せられているように。生身の人間が、陽や火に頼らず内側から体温を保つように。この絵が普遍的な人間を表し生命を宿すには、内側から発する恒常的な「熱」を得る必要がある。
 だが、言うは易し。行なうは難し。私はこの絵に取り組み始めた昨年来、熱を注入する方法を見出せないままであった。
 そこへ現れたのがあなただ、ラファエッロ・サンティ。
 先ほど出逢ったばかりだが、ひと目見てひと声を聴いただけでああ。喉の奥に熱いものが込み上げた。唇が干上がった。手足の先が痺れた。
 そうか我が身体で感じたこの熱をこそ、絵に反映させればいいのではないか? これを肖像に描き加えれば、そこに生命は宿るかもしれぬ。
 一瞬にして、そんな夢を見せてくれたのだ。あなたこそが……。
 私の頭にはそんな言葉の塊が渦を巻いた。けれど、実際にはどうにも声を上げることが叶わなかった。
 ラファエッロは我関せずと、くだんの肖像画に見入るばかりだ。画と自分の距離や角度をあれこれ変えつつ、矯めつ眇めつしていた。
 私はその間、話しかけるタイミングを捉え損ない続けた。
「あなたをモデルにこの絵を描き進めたいのだが……」
 そう申し出たいだけなのに、声が出ない。
 そのときラファエッロがふいに向き直り、私の懊悩をひょいと消してくれた。
「私のほうからお願いがあるのです、レオナルド。これからしばらく、何度かここに足を運ばせていただけませんか? ぜひにこの絵を模写させていただきたいのです」
 思いがけぬが、うれしい申し出だった。ただ、なぜ? 未完成のこのような肖像画でいいのか?
 いや、《アンギオーリの戦い》を模写したいというのならわかる。完成すれば五百人広場を飾り、フィレンツェの宝となるはずの絵なのだから。
 たしかに《アンギオーリの戦い》を模写したいのだと言えば、彼の師ペルジーノだって弟子を私のもとへ通わせるのを快く許可するだろう。
 だが、こんな珍奇な描きかけの肖像画を写すためと言って、許しを得られるものかどうか。
「それでいいのです、レオナルド。あなた自身も何より大切なのは、あの肖像だとお思いでしょう?」
「……よろしい、ではぜひどうぞ写しに通ってください。
 その代わり、と言っては何なんだが……」
 ようやく言えた。ラファエッロが肖像を模写しているあいだ、私はラファエッロの姿を写してよいかと申し出ることができた。
 ラファエッロは変わらぬ微笑で快諾してくれた。そうして明日にでも道具を持って来ると約して帰っていった。彼は去り際の後ろ姿にまで、快活さが溢れていた。
 次の日、私は朝早くから作業場へ出た。今日はラファエッロが来る。それまでに《アンギアーリの戦い》の下描きを、すこしでも進めねばならぬ。
 さっそく卓へ向かいチョークを持ち、長くその姿勢を崩さなかった。けれどいっこうに筆は進まぬ。
 弟子たちの姿はない。今日は来るに及ばずと人払いをしておいた。下絵の整理も覚束ないが、まあ止むを得まい。
 これで筆も進まぬようでは、制作のペースが明らかに落ちる。が、この際しかたない。それよりも私は、ひたすら待った。午後一番にはやって来るはずのラファエッロを。
 やがて約束の時間通りに、彼が姿を現わした。戸口の外まで迎えに出て、いそいそと奥の部屋へいざなった。
 ラファエッロのための椅子は《モナ=リザ》の正面に、我が身丈ひとつ分の距離をとって置いておいた。彼が一目惚れ惚れした肖像画をじっくり模写できるように。そして自分の椅子は、《モナ=リザ》からもラファエッロからも等しく我が身丈ひとつ分の距離をとった。そこに座って私は、《モナ=リザ》を描くラファエッロの姿を克明に写すのだ。
 背筋を伸ばし腰掛けたラファエッロは、さっそく一心に絵を見つめて動かなくなった。そのラファエッロの斜め横顔を、私は一心に見つめながら手だけを動かす。上方から眺めたら、《モナ=リザ》とラファエッロと私が綺麗な三角を形作っていたはずだ。
 シャシャ、シャ……。シャ、シャシャ……。
 チョークが紙を滑る音だけが室内に響いた。動いているものといえば、親子ほども齢の離れた男ふたりの腕二本と四つの眼玉だけ。
 花の都フィレンツェの中心街は今日も活気に満ちていたが、喧騒はここまで届かない。よほど噛みしめなければ何の味もしないように何気なく過ぎていく昼下がりの時間が、私には幸せだった。ちょっとした刺激にも大揺れしてしまう内心が、いまは故郷ヴィンチ村の山奥にある湖面のごとく澄んでいた。
 やはり視線がひとつところに定まると、心もぴたり鎮まるものなのだ。そして視線の先には、ラファエッロ・サンティがいる。出逢って二十四時間ほどしか経たぬのにかくも愛しい彼が、見事な微笑と仕事に打ち込む強い集中力を湛えてそこに在る。
 これ自体がひとつの完璧なる幸せのかたちか。しかと味わっておこうと私は強く思った。


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