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「セールスマンの死」8   20211006

 四畳半の部屋の襖をほんのすこし開けて、私は帰宅した父の様子に聞き耳を立てた。嫌悪するものの嫌なところをわざわざ見たくなるあの心理に、何か名前はあるんだろうか。

 父は玄関先に大きな音を立ててアタッシェケースを置くと、さっさと部屋に入っていった。ガタタタ…と椅子を引く音が聞こえ、食卓のいつもの席に座ったと知れる。これみよがしな大きなため息の音もひとつ。

 アタッシェケースを両手で抱え遅れて部屋へ入った母は、身体を案ずる声をかけながら手早くお茶を淹れる。熱々の湯呑みはしかし、卓の上で手つかずのまま湯気を立てるのみ。父は自分で小ぶりのグラスを戸棚から出してきて、そこへ焼酎をなみなみと注ぐ。こぼさぬようそうっと電子レンジに収めて、ボタンを押す。

 ちょっと温まりたい。運転中は手足がかじかんでしかたなかった、と父が弁解めいたことを口にする。何でも鵜呑みにしてしまう母は「やっぱり身体に障りでも」と心配するが、とはいえ対策や処方を出すつもりはない。

 声を無視して父は大事そうにグラスを運び、瞬く間に焼酎を飲み干した。あとはもう繰り返しだ。流しへ向かい焼酎瓶を手にとってグラスを満たし、電子レンジにかけて取り出しひと息に飲み干す。小一時間のうちに何度、同じ動作を飽きもせずにしたことか。

 酔えば必ず愚痴が出る。うちのいまの社長は何もわかっとらん、あれじゃ会社も持たんぞと始まった。
 曰く先代はよかった、自分と二人三脚で会社を大きくした盟友のようなものだったから。継いだ苦労知らずの息子など話にならん。自分のような叩き上げのセールスマンの重要性や扱い方を、まるでわかっちゃおらんのだ云々と。

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