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「セールスマンの死」5   20211003

 車窓の桟に肘をのせ頬杖を突いて、私は冴えない景色を眺めていた。曇天に稜線が溶け込んで朧げな富士山は、もうとっくに現れあっという間に後方へ流れ去った。あとは目ぼしい見ものがほとんどない。せいぜい富士市あたりの製紙工場と河原がやたら広い天竜川、それに浜名湖の湖面くらいか。
 東海道新幹線で東京から名古屋へ出て、そこから名鉄ローカル線で四十分。実家までは二時間半かかる。到着は昼時を大きく回りそうだった。
 顔を近づけている車窓に、うっすらと自分の影が映っていた。二重映しになった田圃と工場ばかりの光景と同じくらい憂鬱を湛えた顔がそこにあった。これじゃ死相の出ていた父の顔と大差ない。

 昨晩に父の死の報せを受け取り、家に帰って告げると妻は、
「あなたはすぐに出なくっちゃ」
 と、私が帰省する準備を手伝い始めた。礼服に革靴、数珠はここと手際がいい。近くこんな日があるのを見越して揃えてあったんだろう。
 今朝も朝イチの新幹線の時間に合わせて叩き起こされたのに、私は従うのが嫌で大いに愚図った。
 自分の名前で仕事している人間は、親の死目に会えないくらい覚悟してるんだ。何日か稽古を休むなら連絡すべきところがいくつかあるし、本読みの自習だってしなくちゃいけない。すぐには出かけられないと主張した。
 が、妻には鼻であしらわれた。自由業が私生活でも大手を振って自由にふるまうことほど見苦しいものはない。ピシャリそう言われ、
「もうじゅうぶんでしょう? お父さんへのヘンなわだかまり、忘れてあげなさいよ」
 と諭された。

 それでなんとか午前中には家を出た。仕事の細々は一応済ませておけた。くわえて世事に極端に弱い母のフォローをと、葬儀を依頼した業者の担当者と電話で話もしておいた。喪主はご長男様ということで? と問われたが、そこは母親にしておいてくれと伝えた。
 小さい葬祭場が実家から車で五分ほどのところにできていたのは助かった。うちは昭和にできた地方のニュータウンにあり、一帯はいまや当時の入居者が一様に歳をとって巨大老人タウンと化している。ここで葬儀ビジネスを手がけるのは、たしかに正しい判断だ。
 十八歳まで住んでいたのに知らなかったのだけど、火葬場も葬祭場とは逆方向に五分ほど走ればあるのだという。こんなに近場ですべてを済ませられると聞いて、ほんのわずかだけ気分が楽になった。

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