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「完璧の誕生 〜レオナルド・ダ・ヴィンチ手稿発見顛末〜」 6 《モナ=リザ》のための第二日 〜ラファエッロ、機嫌のいいひと

 「若さ」を前にするとつい卑屈になってしまうのは我が悪癖。納得のいく彫像や絵画のひとつも残せぬまま馬齢を重ねてしまっただらしなさが、くっきり炙り出されるようで落ち着かぬのだ。
 ラファエッロはそんなことにいっこう気づかぬ素ぶりで、
「アンギアーリの戦い、存じております。半世紀以上も前のこととなりますか。フィレンツェ軍がミラノのヴィスコンティ家軍を、完膚無きまでに破ったのでしたね」
 ここを訪れる前に予習済みなのか、またはもともと広い教養を備えておるのか。ラファエロはさらりと応え、
「しかし史実はともかくとして……」
 顎に軽く片手をあてて、下絵を見つめたまま続けた。
「この絵画はなんといいますか、完成すれば画期的なものとなりますね! 
 いえ歴史の一場面をありありと浮かび上がらせているからというのではなく、もっとこう……。
 そうだ、人間! 人間を描こうとしていますから!」
 人間そのものを主題にした絵など、これまで他にこの世に存在しただろうか。そんなラファエッロの言葉に驚いて、私は思わず彼の眼をじっと見返した。
 その視線をしかと受け止めたラファエッロがひとつ頷いて、
「王や英雄、軍神。はたまた、神話の世界にすむ住人たち。古今東西、絵描きはそうした人を超えた存在の『型』を描き留めようと躍起になってきましたね。
 でも、レオナルド。あなたはただ目の前の人間を、歴史の一場面に託して描きたいのだ。
 そういうことなのでしょう?」
 ものを習いたての少年のように、私の首はこくりと大きく縦に振られた。
 よくぞ見抜いてくれた、この若者は。
 まさかこんなにすぐ理解者が現れるなどとは、思ってもみなかった。奥歯のさらに奥のほうから、甘やかな何かが滲み出るのが感じられた。
 いやまったくラファエッロの言う通り。そうなのだ、各地を統べる王侯や古の神々を絵に表すのもいい。だが真に人が見たいのは、もっと人間そのものの姿なのじゃないか? 
 そこに迫ってみたい、誰に分かってもらえずとも。
 そう思いながら、ひとり下絵に向かっていたところだったのだ。
 ラファエッロは励ますような口調で、さらに言葉をつなぐ。
「あなたの絵には、そこの大通りでつかまえてきたかのような我々の同胞の姿が描かれている。そこが、これまで他のどんな絵師も成し得ていないおもしろさです。
 しかも、レオナルド。あなたはそうした普通の人の姿態や表情を、どこまでも実物に則して描き出す。
 この《アンギアーリの戦い》の下絵は戦闘の場面であるから、描かれた一人ひとりが強烈な情動を発している。忿怒や悲嘆、哀れみに虚無……。
 武器をとり戦場に身を置くと、人はかくも激しい思いに駆られるものなのでしょうか。経験浅き私にはわかりません。あなたに軍事技師としての戦場経験があればこその、見事な表現です。
 あなたは何ら特別ではない人間一般を戦場という場に投げ入れ、彼らの内側から溢れ出るものを余さず捉えようとする。そうして画面から『人間が、ここにいる』という生々しい手応えを掬い取らんとしておられる。
 なんとここに至って、絵を描くという技芸はとんでもない境地に足を踏み入れんとしている。描くことは、我ら人間を探求する術になろうとしているではありませんか。
 そうしてこの大胆な探求は、今まさにひとつの答えを見出さんとしている。
 人間とは何か? それは、感情を盛る器である! 
 この絵によって、そう宣言するおつもりなのですね? どうなのです? あらゆる絵描きの師、レオナルドよ!」
 ……痺れながら聴き入ってしまった。こんなに高くて快い声音で、我が意を踏まえつつそれを軽く凌駕する言説を展開してくれて……。この若者は舞い降りた天使なんじゃないかと思ったものだ。
 ともあれ私が漠とした想いのまま進めていたことに、ラファエッロがここではっきりと言葉を与えてくれた。
 美しいだけじゃない。これほどの切れ者とは。
 うむ、彼ならば……。
「奥へ……。奥に部屋がある。そっちへ来てみないか?」
 そうラファエッロに問いかける声は、つい上擦ってしまった。
 見せたいものもあるのだと付け加えると、ラファエッロは小首を傾げつつも表情は乱さず、
「ええ、そう仰るのならぜひに」
 変わらぬ朗らかな声で応えた。
「ああ、うれしい。ならばこちらへ」
 布をかけて間仕切りとした出入り口を指差して、ラファエッロを奥の間へと促した。
 そこは身支度などに用いるため、私物をまとめて置いたちょっとした空間である。四方は目覆いがしてあるし、ここなら誰も入っては来まい。
 表情を変えないラファエッロだったが、間仕切りの布をくぐるときはほんのすこし足を躊躇わせた。それでもすぐ一歩を踏み出して中へ入った。
 彼の両眼はすぐに、空間の真ん中に置いた画架に掛かった一枚の絵を認めたことだろう。ラファエッロが歩を止めて、ついでに息も詰める。そうしてしばし、眼だけの人になっていた。
 彼が身じろぎもしないのは、画架上の小さい肖像画に描かれた女性の発する引力が作用しているのか。掛けてあったのはもちろん《モナ=リザ》である。私はこの絵を肌身離さず手元に置き、いつでも眺めたり描き加えたりできるような状態に整えていた。
 身を乗り出し、正面切って彼女と眼を合わせることしばし。ラファエッロがようやく口を開く。
「……これはまた、驚かされますね。そうですか、《アンギアーリの戦い》より先にこんな絵を手がけておられたのですね。
 ここに、もう……。実現せられようとしているではありませんか、人間を描くという所業が。
 なんということでしょう、レオナルド。なぜあなたは私にこの描きかけの絵を見せてくれたのです? これはいったい誰なのですか。いや、むろん名などないのでしょう。彼女こそ、普遍なる人間そのものですから!」
 ラファエッロの声のトーンがさらに高くなった。すこし冷静さを失った彼の姿を見て、私は満足な気分に包まれた。
 そう、この自然な感情の発露が見たかった。眼前の美しい顔貌がナマな感情に呑み込まれると、どう移り変わるか。しかと記憶に留めておきたい。
 奥の間に連れ込んだ反応として、期待以上のものが返ってきたものだ。これでずいぶん言い出しやすくなった、ありがたい。
 そうなのだ。《モナ=リザ》を完成させるために、ああラファエッロ。私はあなたにぜひ、ひと肌脱いでもらいたいのである。


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