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「完璧の誕生 〜レオナルド・ダ・ヴィンチ手稿発見顛末〜」 3 《モナ=リザ》のための第一日 〜ミケランジェロとの邂逅

 昨年の末、寒い盛りの頃のこと。
 その日は行政庁長官付の役人に呼ばれ、フィレンツェ庁舎へ出向いていた。街の象徴として新たに造られたダヴィデ像、この設置場所はどこがふさわしいか。技芸家を代表しての意見を、内々に求められたのだった。本心を明かせば、
 知ったことではない! 
 のひとことだ。他者の彫る像の行方なぞ、考える余裕がどこにあるか。そもそも行政長官は、ダヴィデ像をなぜ私に造らせない? 頼んでくるのは置き場所の相談だけとは、無神経に過ぎる。
 まあこちらも大人である。内心は煮えくり返っていてもそんな素振りは見せず、無難な言を重ねておいたが。
 帰途につこうと外へ出ると、もう陽も落ちかけていた。今日もまた無為に過ぎてしまうのか……。急ぎ戻って、少しの時間でもいいから筆を握らねば。
 ああ、気ばかり焦る。小さい頃からずっとそうだ。いつも焦燥とともに、これまでの自分の生はあった。
 齢を五十も越えてからは、いっそう酷い。こびりついた焦燥が頭を離れることがない。
 とりわけ夕刻になると駄目である。今夕もアルノ河から上る寒風に吹かれながら、幼児のごとく泣き出したい気分に覆われた。
 そんなこちらの気分にはお構いなしだ。サンタ・トリニタ広場の開廊に差しかかったところで、
「レオナルド、いいところに」
 と声をかけられた。
 寄り集まって議論を楽しんでいた、役所勤め連中のひとりだ。
「いまちょうど『神曲』について話していた。どうにも議論の分かれる一節がある。技芸家としての見解を聞かせてくれぬか」
 ただでさえこちらは、焦燥と暗愁に包まれているさなかというのに。足止めされて、ましてやダンテとは! 
 ダンテはまずい。その名を聞いただけで口中が苦くなる。人前ではいつも絶やさぬよう心がけている愛想も、今は尽きてしまいそうである。
 というのも正直なところ、文学というものがまったくわからぬのだ。
 いやさすがに『神曲』くらいは目を通したことがある。ダンテはフィレンツェの生んだ巨星。上級市民の輪に入るうえでは必須の素養となる。
 ただ……、読んでもわからなかった。たしかに地獄や煉獄の様子が、思い浮かぶには浮かぶ。が、文字だけでつくられたイメージなんてあまりに朧で頼りない。
「羞恥」だ「苦悶」だ「歓喜」などと、ダンテが軽々に記すのも解せない。率直に言えば、「だからどうした?」だ。
 他者の感情など、不確かですぐ移ろいゆく。それを熱心に追いかけ留め置くのが、そんなに愉快か?
 自分に「学」がないから、理解が及ばぬのだろうか? 所詮は寒村ヴィンチで私生児だった卑しい出自の身。教育を受ける機会などなかったのだ。
 長じて始終何かを書き散らしているのは、その反動である。こうして独学する以外の方法が未だにわからぬ。
 さらに言えば、だ。話しかけてきた役人連中が解釈を尋ねてきた箇所は、よりによって『神曲』煉獄篇の第三十歌だった。
 ダンテが永遠の淑女ベアトリーチェと再会し、長年の恋慕の感情に気づく場面。その気持ちがわかるはずはないのだ、これまで異性を愛したことなど一度もないのだから。
 役人連中もそれをわかっているのではないのか? 
 若い時分だが、男娼と羽目を外して当局から咎を受けたことはあった。事件は街の噂にもなっただろう。役人連中が私の性向を知っていながら、底意地悪く煉獄篇第三十歌を持ち出したんじゃないのか?
 どんな顔をして何と返事をしたものか……。
 困惑していると、向こうから広場をやって来る影がひとつ。おお、彼なら助け舟となるやも知れぬ。
 その影とは、ミケランジェロ・ブオナローティのものであった。
「ちょうどほら! ダンテのことなら、彼のほうがうまく説明してくれるのではないか?」
 そう言って、役人連中の注目をミケランジェロへと振り向けた。
 若く偉丈夫な彼の姿には、遠目にも自信が満ち溢れている。それはそうだろう。ヴァチカンで造った彫刻《ピエタ》が評判をとり、今度はフィレンツェを象徴する《ダヴィデ》像を彫り進めている最中なのだから。
 そう、今日政庁で設置場所を諮問された彫像とは、彼の手になるもの。ダヴィデを彫る仕事を行政長官は、私ではなくミケランジェロに託したのだった。
 彼はまもなく大きな名声と対価を得ることになるのだ。私がこうして広場で、役人連中におもねっている隙に。
 ああ。なぜダヴィデに鑿を穿つのが、彼であって私ではなかったのか? 
 私ならもっと、この花の都にふさわしい構想を立てられたはず。そうして今度こそ、傑作を完成させられたのだが……。
 まあ言い募っても詮が無い。せめてここは泰然として振る舞い、内面に渦巻く疑問を顔色から悟られないのが肝要である。
 それでつい気軽な風を装い、彼に声をかけてしまった。圧倒的な勢いを持つ若手にも余裕綽々たる年長者、という態で。
 こちらに気づいたミケランジェロがすこしだけ歩を緩めた。役人のひとりが、
「ダンテの解釈を話してましてね……」
 すると彼はすべてを聞き終わらぬうちに、
「ああん! レオナルド、あんたが自分で説明したらどうなんだ?
 口先だけで適当に済ますのはお得意なんだろう?
 あの騎馬像のときだってずいぶん大風呂敷の設計をしたはいいが、いざ鋳造となると怖気づいて放り出したのだったしな」
 ものすごい剣幕で言い放ち、さっさと川沿いへ歩み去ってしまった。
 役人連中は呆気にとられ、私も喫驚して立ち尽くすのみ。場を取り繕うため顔面に嵌めるべき表情が、ひとつも見当たらぬ。
 語らいの輪は、そのままうやむやに散会した。
 またひとり帰途につくも、頰から耳までを真っ赤に染めた火照りはいっこう収まらなかった。
 道中で脳内を渦巻くは、ミケランジェロへの反駁ばかり。
「無礼! 傲慢! 不見識! あいつはいつもそうだ! まったくそもそも、真に完成に至った作品などというものがこの世に存在するのか? あるなら言ってみろ、教えろ、教えてくれ!」
 ミケランジェロが先ほど挙げた「鋳造されなかった馬」とは、《スフォルツァ騎馬像》のこと。たしかに私はかつてミラノ公の依頼で世界最大の彫像を構想するも、やむなく断念した。
 しかしそれは止む無き理由があった。いざ鋳造の段になって、ミラノがフランス軍との戦争に突入した。材料として確保していたブロンズは徴用され、あえなく三基の大砲に化けてしまった。
 世紀の彫像は言わば、歴史の犠牲者となったのだ。ミケランジェロにとやかく言われる覚えはない。
「そもそもアイツはなぜ私を目の敵にする? そんなに老いぼれが目障りか? いちいち喚き散らすのは、こちらを強く意識しすぎなのだろう。んむ、そうだ。互いに意識しすぎということなのかも知れぬが……」
 お互い様の面はあるようだな。そう思い至ってようやく、ミケランジェロの心情を推し量る余地ができた。広場であんな軽い口調で呼び止められるのは、ミケランジェロから見れば年長者による傲慢と映ったやも知れぬ。しかも、いきなりダンテの解釈を問うなどとは。隙あらば無知を嘲笑ってやろうとの魂胆に見えなくもない。
 それに、だ。仕上げられなかった《スフォルツァ騎馬像》のことを彼が持ち出したのはひょっとすると、
「俺は寸暇を惜しんでダヴィデを彫っている、あんたはこんなところで油を売ってる場合なのか?」
 との真摯な問いかけではなかろうか?
 年甲斐もなく頭に血を上らせた火照りは、アルノ河から吹き上がる寒風がすこしずつ冷ましていってくれた。
 人心地つくほどに、ミケランジェロへ感情をぶつけるのは明らかに誤りであったとの意が強くなる。
 わざわざ《スフォルツァ騎馬像》失敗の件を持ち出さずともいいではないか、という気は未だする。だが一方で、いつも作品を完成させられないのは紛れもない事実。痛いところを突かれたといって立腹するのは、それこそ年配者のふるまいではない。
 引け目を堂々と晒されるほうが、陰口を叩かれ続けるよりずっとましだ。
 そもそも、だ。このままろくに完成作のないままでいいのか。その問いには、いつかちゃんと向き合わねばならなかったのである。
 生きているうちなら気持ちをごまかし、やり過ごすこともできよう。だが死んだあとはどうか。完成作もなければ、技芸家として早々に忘れられるのみ。いくらミケランジェロに負けていないとここで言い張ったとて、後世はどう判断するだろう。
 考えるほど、これまで何も為せていない自分が不甲斐ない。このまま朽ちていくのは怖い! 怖すぎる。
 ……だからこそである。今回は必ずや、見事に作品を仕上げてみせる。「妻の肖像画を」と絹商人から打診されたとき、そう固く心に誓ったのだ。


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